24年 4月

日曜日はわりと暇だ。

店をやっていると日曜や土曜はかきいれ時というところもおおいのかもしれない(ちょっと調べてみたら「かきいれ」は漢字で書くと「書き入れ」で台帳に書き入れるという意味からきているようだが、なんとなく掻き入れる客を掻きこむという感じもする。どっちであってもひどい言葉だと思う)。

昨日はそこそこ仕事に追われたが、今日は、知り合いの来店と近所の子供たちの自転車の手入れくらいで、あとは新しいブログの準備をしていた。

知り合いというのは最近いろいろと技術的な面で教えを乞うている師匠のような方で、こちらに出向いてくれたのは今回で二度目、奥さんと一緒に来てお昼ご飯を差し入れしてくれた。とてもおいしくいただいた。

時間があると作っている柿渋の箱について師は「京都なら売れる」と言っていた。暗にここでは売れないということで、苦笑した。でもうれしかった。

柿渋の箱はいずれ売り物にしてもいいと思うが、なんというかこの作業で生まれるものは、「商品」というよりも「実験と発見と思索の残滓」であり、なんとなく売り物という感じがしてこない。

最近は休みにその師の工房の片付けの手伝いに行っているため週七日働いていて、休みもないのでそのぶん割り算のように一日の活動力が落ちている。本もろくに読んでいないし、音楽は店内に自分の好きな音楽を流して聴いているが、新しいものに出会うのはラジオだけだ。だからか、本のかわりにラジオということも多い。ラジオの朗読やラジオドラマが日々に新しい風を吹き込んでくれる。

そんななか新しい本をやっと買った。ゆっくり読もうと思っていたのに多分おなかがすいていたのだろう、すぐに読み終わってしまった。

読んだ本

大庭賢哉『誰も知らない小さな魔法』静山社

作業日誌について 前言撤回

前回の投稿でここを店舗の運営と一緒にするようなことを書いた。

だがいろいろ考えたうえで、やはり店舗用のブログを別に用意して、そちらに店舗での作業やライトのことを書き、こちらでは今まで通りの日々の雑感や読んだもの聴いたもの考えたことを書くことにする。前にも書いたが、ここに書いてあることのほうがむしろ私にとっての「作業日誌」であり、自転車修理や店舗運営はその一部でしかない。

自転車修理は仕事なので書くこともそちらが多くなる気がするので、いっしょにするより別に作るほうががむしろ見やすくなるとも思う。まあだらだらどうでもいいことを書いてもしかたない。ブレヒトの作業日誌も演劇のことよりブレヒトという人間からみた世界のことが書かれていることのほうが圧倒的に多かった。

そういうわけでここがhaunted heart、hayasi napoli homeに続く「本拠地」であることには変わりない。いろいろやってきたからこそ統合的な位置づけでここを維持すべきだと感じる。

店のブログからのリンクを通じてみる人もいるかもしれない。その際には遡ってぜひ読んでもらいたい。

 

作業日誌について

コロナ前でここへの日誌付けも止まってしまっていた。だけれど実際にはコロナが原因ではなく、自分の仕事の変化が原因だった。転職し、自転車整備の仕事についてから忙しくなり、結局2024年になったというだけ。

このブログもこれからは本当の意味で「作業日誌」にしていこうと思う。というのも自分で店舗をもち独立することになったからだ。場所も関東ではなく、関西に移動した。

ごくごく個人的な感じで運営してきたブログを今更、店舗の運営に関するブログにするのもどうかと思うが、今まで言ってきたことやここに書いてきたことが自分の中で過去のものになるわけではないし、特に間違っているとか間違っていないとかそういうこともないので、そのまま残して上書きしていこうかと思う。ここの記述を過去に辿って、小難しいことが書いてある記事を読んで、それで客が減るということ増えるということももないと思う。

ここにはこれからライトの制作や店での作業などで、インスタグラムの投稿ではカバーできないようなことを書いてみようと思う。作業日誌なので備忘録的な要素もある。なので、決して世間に向けての店舗のお知らせのコーナーではない。作業日誌というタイトルもそもそもベルト・ブレヒトの作業日誌にあやかってつけた。ブレヒトの日誌も備忘録や、写真や新聞の切り抜きがあるぶんだけブログに近い。私の作業日誌もそのスタイルで行きたいと思う。こういうのはいつも「誰に向けて書くのか」があいまいになる。自分に向けてのようで、誰かが読むことを意識した文体で、中途半端で虚空に向かって誰かに聞かせる独り言を放っている感じだ。

その点、ブレヒトの日記も私的なことを書かないとあり、日記ではない。考えてみるとブレヒトは誰かと対話することで自分の創作をすすめる気質だったという。翻ってみると作業日誌は多分自分に向かって語るというスタイルに見えなくもない。

つまりはそういったことにも何かしら自分の作業を整理する効果があるということだろう。そう思って続けていきたい。

軸足を移した景色

『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』を見てきた。
ウォルト・ディズニーでは、どうやらまだ続けるということのようだが、ルーカスの原案による物語に始まる顛末は一応区切りを見せたので、わたしの中ではこれで終わったという感じ。わたしのにとって洋画の原点は、『スターウォーズ』『インディージョーンズ』『バックトゥザフューチャー』の三つの「三部作」であり、そのうちの延長戦の一つがこれで完結した。インディー・ジョーンズには完結とかなさそうだから、ハン・ソロ亡きあと、インディアナには死ぬまで働いてもらうしかない。大学の先生って定年はないのだろうか。もし定年ならもはやただのトレジャーハンターだが。

二〇一八年の後半くらいから、『肉体のもつ知性論』や『非合理の公共圏』と、その後の思索を繋げながら一つにまとめていくライフワークの一環に手をつけはじめた。ライフワークであるから当然だが、切りがなくなりそうなので、一旦一つの形にして提示しておき、それからまた次の段階に入りたいということもあって、わりとその作業に時間を割きつつ、過ごした。なんとか今年中に一区切りつき(といっても八五〇頁にもなったが)、今まとめの段階にある。今年は一年のちょうど中間に二十日くらいの長旅があり、そこを境に仕事も変わり、生活のリズムも変わった。ちょうど軸足を入れ替えたという感覚。
来年はそのあたらしい軸足を中心に今までと違った範囲に手が届くようになることを祈りながら、日々暮らしている。

音楽製作は、こつこつと『伊勢物語』に曲をつける作業をしてきた。組曲形式にする予定で、五曲出来上がった。来年はこれらの遺産をどう生かしていくべきか思案しながら行動する年になるかもしれない。
いずれにせよ未来という観念は今のわたしにとってあまり重要ではない。自分が世界の外側からやってくるものとどう反応しながら動いていくかそれに尽きる。それには一つ一つの生み出される時間の質感を大事にすることだ。来年ということと未来というのは少し違う。日本には四季があり、一年がサイクルとしてまた来訪する。その季節の移り変わりを感じとることは、未来を思うことというより、今ここに生まれていく時間を感じることである。そのような意味で、来年という時に現れる新しい景色を祈りを持って迎えたいと思う。

最近読んだ本

高橋ユキ『つけびの村』晶文社

新聞の書評で見てのち、ラジオで著者のインタビューを拝聴した。インターネットでレビューを見たら酷評ばかり。そこで興味を持って買ってみた。

山口県で起こった放火殺人事件の取材の顛末を書き綴ったもので、著者によれば、ある程度まとまった時点で、出版のめどもなく、インターネットで一回100円で購読できる連載というかたちで、公表され、評判がよかったために出版のめどがついたそうだ。私はネットの有料記事は読まないので、紙になって初めて存在を知った。

内容については、触れず感想にとどめる。

出だしは非常に面白く、うわさが重なり合って一つの世界が見えてくるあたりは恐怖するとともに、やはりこういうものだよなと思わされた。
コープの寄り合いのあたりや、泥棒や付け火の話は、かなり深みを見ることができた。
しかし、村の歴史や祭り、古老の話などは通常ノンフィクションに背景的な深みを与えるはずのものなのに、著者が深入りを避け、周辺からのみ様子を伺ったような浅いものであったために、逆に金峰村の歴史的なものに説得力を見出すような要素は見られなかったのは残念であった。

単行本化に際して追加された、後半の部分は前半に比べ取ってつけたような感じがある。もう少し時間をかけて、出版のめどがなくとも、著者の興味の範囲でゆっくり取材されたら、もっと面白い本となったかもしれない。たとえば、高田衛が関東の歴史的な深みを重層的に裏付けるようなやり方で、山口県を掘りさげて欲しかったと思う。そのためか、ふと、この本の他に宮本常一の周防大島にかんする本などを副読したら面白いかもと思った。

とはいっても、著者の言うように、うわさが主人公のノンフィクションというのはもはやフィクションとノンフィクションが逆さまになったようで、そこらへんのホラーより恐ろしく、なかなか読ませる本だった。

田島列島『水は海に向かって流れる(1)』講談社

2巻がでることを知り、この1巻の存在に気づいた。著者に関しては、前のペンネームのときに、モーニングの読み切りでの(たぶん)デビュー作から読ませていただいている。そのデビュー作で「じゃあ、このパイ的なやつを・・・」というような言葉の言い回し(たしかパイだったと思う)を読んだときに、この人の漫画はたぶん「相性がいい」と思った。

そのあとしばらくしてもう一つ読み切りが出た(たぶん前作のつづきのようなお話だった)。そのあと私が地方生活をしてモーニングを読んでいない時期に、どうやら連載をしていたらしく、地方から戻ったら、『子供はわかってあげない』がでていたのだった。
どうにもこの著者とはすれ違う。だけれど、今度のやつは『別冊少年マガジン』とやらでやっているという。いやいや、このひとの漫画、『少年マガジン』って感じか?別冊ってなに、『青年マガジン』の間違いじゃないのか?もはやすれ違い得ない。

そういった話はともかく、やはり今回も田島は田島だった。延々と繰り替えされる、隠し事の「ババ抜き」。しかし話は前に進んでいる。なんというか何かが進んでいる。それは時というべきか、それを著者は「水の流れ」といっているのだろうけれど、あくまでもこの水は登場人物たちの家の近所に流れる川でしかない。そういった深読み的なやつは不要なのだ。私小説は漫画で描ける。ふざけるようでもさらけだすようでもなく。

私が好きな漫画家は、エネルギーがこんこんと湧き出ない人たちが多いようで、黒田硫黄も、鶴田謙二も、芦奈野ひとしも、まあ何かこんなペースで突然思い出したように、本が出てたりする。そういえば黒田硫黄もなんかでてたような。『冒険エレキテ島』の3巻も芦奈野さんの新連載も多分まだかかる。しばらくは田島列島とあらいけいいちに頼ることにしよう。

関東の歴史叙述

福井から関東に帰ってきて五年ほどが過ぎた。福井にいて気づいたことの一つに、土地の歴史を土地とともに考えるということがあった。関東に戻る際には、その後他の地域に移住するとしても、まず関東の歴史をいろいろな土地を回りながら考えておこうと思っていた。実際に千葉、栃木、伊豆などを車で回ったりしながら少しは考えてきた。だがなかなか全体的なことを考えるほどには時間もとれずにそろそろ移住を考える時期が近づいてきている。

そんな折、この前の勉強会で江戸文化が議題となり、少し概観的に江戸時代の通史の勉強をしながら考えてみたことで、いくつか気づくことがあった。それをここに記しておく。

徳川家康が関東に移住してくるよりも前から、当然関東はここにあった。

家康は移住してすぐに、河川の改修に取り組んでいる。利根川や鬼怒川といった北関東の河川は、その後、家光が日光の社参を繰り返すなかで、日光街道の整備とともに進んでいき、利根川東遷事業にまで発展している。

家康はその死後、駿府の久能山に埋葬され、分霊という形で、関東の守護神に据えられる。それは家康自身の意向による。

このことから分かるのは、家康は江戸にアイデンティティを持ってはいなかったということと、自分が作った江戸を中心とした関東一円を神となって守護するというときには、そこは自分の土地であるという意識において、所有的な観念があるということだ。

先にも述べたが、関東はそれ以前からも関東であるが、江戸を中心とした関東は、家康の都市計画的な構造のなかで、意義づけられ整備されていく。それは人が土地を合理的に改造していくということだ。そのようにして関東の街道整備や治水は行われる。

この際に関東という土地のもつ本来的な性質はあまり鑑みられていない。江戸は確かに水運に於いては便利であるが、それは人の利便性や効率、合理性にとってでしかなく、そのことは同時に、江戸は周辺に河川の河口が集中していることで氾濫時の危険性も高いことを示している。

茨城、千葉の北部にはものすごい数の「水神社」が分布している。このことはそれだけの水害があり、水神を恐れ崇めてきた歴史が、江戸以前から関東にあったことを示している。そのような水の危険を知っていた家康は、河川改修を積極的に進めるが、それは同時に、人工的に自然を押さえつける近代的なあり方の一番進んだものとなった。

利根川流域には河童の伝説が多く残り、また同時に、人柱の話も多い。自然への恐怖心は人間を原始的な心理に押しとどめる。しかしそれは同時に自然を直視し、受け止めながら生活することで、土地との結びつきは強い。

それに対して、江戸を中心とした都市計画では、そのような土地との結びつきは近代的な発想で無視され、強硬な開発によって自然を押さえつけるという方法で対応した。これはつまり、自然と都市が乖離した生活を意味している。そこでは河川は自然ではなく、交通網や生活利用のための水としてその目に移るのである。

江戸の中期、元禄文化が広がったのは、おもに大阪や京都であり、関東はそこまでではなかった。

関東で文化が一気に広がるのは、十八世紀の中頃、和暦でいえば宝暦天明のころのことで、その一つの要因としては、田沼意次の重商主義的な政策があるといわれている。田沼意次は印旛沼の開発も進めており、決して経済一辺倒ではなく、農業にも力を入れていたといわれるが、やはりこの時期に、江戸の主導権が、武家から経済的に豊かになってきていた町人層に移ったことは確かなことである。

武士はその見栄のために金がかかる。将軍家による日光社参は非常に金を食ったが、それは江戸の初期に家康の力を高めるためには必要だったのであろうし、参勤交代はよく知られているように、金がかかり、諸大名の経済力を奪った。

経済の中心は金や銀という物理的な資本から経済における物の価値に移っていく。
宝暦天明文化で花開いた江戸の文化の中心は庶民であり、江戸に生まれた諸大名の子孫たちもまた江戸っ子的な気質を持つようになり、幕臣もまたそうなった。蔦屋重三郎らによる出版文化は、江戸の落書のような庶民的な文化を、印刷文化にまで推し進めていく。

狂歌、黄表紙、読本、合本、川柳、浮世絵、錦絵といったものが、庶民の文化として、好まれ、それを作るものもまた各藩の下級武士や幕臣、商人や町人らであり、そのような人々がネットワークを作り、文化を形成した。

筆禍事件のようなものを通じて、武家の人々の参加には制限が生まれたようだが、もうこの時点で文化の担い手は庶民に移っており、衰えることはなかった。十九世紀にはいり、山東京伝や曲亭馬琴があらわれ、十返舎一九のような職業作家も出てくるようになる。

京伝や馬琴らの作品をみると、ここに別な変化が見出せるように思う。

京伝の『善知鳥安方忠義伝』では平将門の遺児ら(平良門、滝夜叉姫)の活躍する話であるし、有名な『南総里見八犬伝』もまた結城合戦を扱っている。

『善知鳥安方忠義伝』を画題とした歌川国芳の有名な錦絵「相馬の古内裏」では、将門の娘、滝夜叉姫が妖術で大きな髑髏を操り、源頼信の家臣である大宅太郎光圀とたたかう場面を描いている。

河内源氏である源頼信は平安時代の平忠常が房総半島でおこした乱を平定し、のちに源氏が関東に入る基礎を作ったとされる。
この反乱は、平将門が関東を支配した百年後のことであり、『善知鳥安方忠義伝』はフィクションであるがゆえに自由な配役をしていると思われる。
とはいえ、平将門は十世紀にして新皇を名乗り、関東を支配した最初の武将である。また平忠常は上総氏や千葉氏の先祖であり、ここでも関東のルーツ意識がある。

平良門は近松門左衛門の浄瑠璃などでは源頼光の敵として悪役である。それを主役に据えるのは、大阪・京都の元禄文化に対抗して江戸のアイデンティティを関東のうちに見出すことのようにも思える。

その点では馬琴も同じであり、関東守護の上杉氏に対する結城の遺児たちの戦いは、関東における源氏との戦いをよりローカルなかたちで、描いている。
将門と同じ坂東平氏の末裔である、武蔵国の秩父氏、相模国の中村氏、常陸国や上野国の平氏があつまり河越直重が中心となって南北朝時代におこした武蔵平一揆を制圧した上杉憲顕は足利尊氏の従兄弟であり、足利氏もまた河内源氏の末裔である。この上杉憲顕に始まる関東管領を上杉氏が世襲して関東一円を支配していく。
ところが、上杉氏はのちに足利氏と対立するようになり、上杉氏も扇谷上杉氏と山内上杉氏の二つの勢力となる。
扇谷上杉家の家臣である太田道真とその子、道灌が江戸城をつくり、道灌がそこを治めることになる。
そこにはそれまで江戸氏という氏族がいたとされるが、この江戸氏もまた秩父氏系の平氏の末裔である。

そもそも結城氏は鎌倉公方足利持氏の家臣であり、それが扇谷上杉氏と戦うというのは、もはや源氏同士の戦いである。というのもこのことは足利義教と持氏の将軍家督争いのからんだ対立という意味では足利氏の内部対立に端を発している。だがこれは京都にいる将軍と鎌倉にいる鎌倉公方の対立という点でいえば、関東というローカルな地域の反乱を意味していて、平将門や忠常と同じ流れにある。
このような争いの過程を経て、関東のいろいろな地域の氏族や、その支配地域の形成がおこり、土地と人々の関係が形作られていく。

このように江戸中後期の作家たちは源氏と平氏、京都と関東の争いを、関東での出来事から描き直すことで、関東のアイデンティティをより深く掘り下げることを行っている。それだけの知識を彼らは持ち、また調べもしていた。

家康が駿府に眠るように徳川氏は結局のところ関東の人々ではない。しかし関東に住む庶民たちは、自分たちが住んでいる土地を感じ取り、その土地の歴史を掘り下げ、そこにアイデンティティを見出していった。

そう考えると江戸の文化というのは、最終的に江戸という都市の文化から、江戸のある関東という土地の文化へと江戸末期に向かって変化しているととらえられる、だとすればその開放が明治におこっていくのではないかという気がする。幕末になり、京都と江戸の対立が再びおこったとき、そのようなアイデンティティはどう働いたのか、関東の明治期での有り様もまたそのような歴史過程をふまえてみなくてはならないような気がする。

映画 7

先日、横浜の映画館で『ONCE UPON A TIME IN THE WEST』(以下『…WEST』)オリジナル版日本初公開を見てきた。
昔々、日本で公開されたときは、『ウェスタン』という邦題で公開されたもので、私は今回はじめてレオーネの映画を映画館で拝むことができた。

『ロードス島の要塞』が、あまりに冗長で途中で挫折したのと、未だ見る機会のやってこないレオーネ製作の、『ミスターノーボディ2』、それと共同監督を務めたという『ソドムとゴモラ』以外は、すべてヴィデオで見ており、『ウェスタン』もすでに2度ほどは見ていると思う。

その他のレオーネ作品も、だいたい複数回見ている私にとって、この映画をロードショーにのせていただけることは、奇跡としか言いようがなく、タランティーノに感謝したいと思う(ごめん、タランティーノ、そっちはまだ見てない!)。

せっかくなので、映画館の最前列の中央という特等席でがっついて見た。
すると、ただでさえクローズアップだらけの映画がさらに巨大に目の前に映し出され、視界に収めきれないほどの画角となった。おそろしやレオーネ。
その結果、「誰の鼻の穴が一番でかいか選手権」となり、結果、チャールズ・ブロンソンの圧勝となった。

チャールズ・ブロンソン演じる「ハーモニカ」の無口な無法者っぷりはあらためてスクリーンで見ると、結構細部の所作や表情で「語っている」のが伝わってくる。ヘンリー・フォンダは、『ミスター・ノーバディ』でのナイス・ミドルな無法者役に対して、ここで演じる「フランク」の鋭さはじつにやばい。クラウディア・カルデナーレとの絡みのシーンでの悪辣さも、最高にやな感じだ。
だが今回も一番は、ジェイソン・ロバーズの「シャイアン」だ。鼻の穴では誰にも勝てなかったが、人懐こい表情が胸を鷲掴みにしてくる。
とにかくシャイアンが大好きだ。

もちろんこの映画の最大のシーンは一番最初とクライマックスの二ヶ所だ。最初のほとんど誰も喋らないハーモニカ登場までのところは今回のオリジナル版の方が長かっただろうか?風車の軋む音やハエの飛ぶ音などが、殺伐とした空気のなかに見るものを放り込んでくれる。
そしてクライマックスは、回想と現在の入り混じった場面であり、モリコーネの音楽も相まって、胸を熱くさせる。ここまで来て、すべてが明かされる。
こんなもの言葉で説明できない。とにかく見るしかない映画だ。

さて、今回この映画の上映にあわせて、『VIVA! LEONE 2019』というパンフ的なものがboidから出された。それを見て、『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』(以下『…AMERICA』)の企画の方が、『…WEST』よりも先立ったことを知り驚いた。あまり情報とかは入れずに今までマカロニを見てきたので、レオーネファンの間では常識だったかもしれないが、知らなかった。

だが、結果的には良かったのではないだろうか?

私の印象としては、「ダラー三部作」の三つ目である、『続・夕陽のガンマン』は、南北戦争時代のアメリカ案内映画であり、『…WEST』は大西部時代(実際には鉄道が引かれるという西部開拓の最終局面ではあるが)の案内映画、そして『夕陽のギャングたち』が番外編のメキシコ革命案内映画であり、そして『…AMERICA』で禁酒法時代以降のアメリカを描くと、こういう順序でアメリカの歴史を描こうとしたと思っていたのである。
であるから私としては、「ダラー三部作」という括りよりも、『続・夕陽のガンマン』を起点とした、アメリカ大陸史シリーズという印象だったのである。

このあたりはそれぞれの視点で違うだろうが、レオーネの一番の特質は、このような長大なスケール感をウェスタンに持ち込み、その中で無法者たちの戦いを誰にも肩入れすることなく描くということが、それぞれのキャラクターを人間味のあるものにし、結果的に、キャラ付けされた他のマカロニよりも強い印象を与える人物を描き出し、ただの時代劇を越えた作品にしたのだと思えるのである。
私はマカロニ・ウェスタン全般が好きなので、他のたくさんの良い作品(コルブッチの『ガンマン大連合』や『豹/ジャガー』に代表されるような)も知っているし、それぞれの良さを分かった上でも、それでもレオーネ作品はマカロニ・ウェスタンとしての最上級品であると言えるように思う。

天国について

昨日、近所の図書館からの帰り道でのことだ。
歩いて坂道を降りているとき、私の横を、自転車で後ろに女の子をのせた母親が下っていった。
その時後ろの子供が、「天国には一生に一回しかいけないのー?」と大声で、母親に話しかけた。
坂道の下はT字路で、先に曲がって私とは反対方向へ消えて行ったので、母親は何ごとか答えていたが、よく判らなかった。

私は残りの帰り路、そのことを考えていた。
死んだらということだろうか?それともこの子は死という概念はまだなく、ただ天国だけが誰かに知らされて心の中にあるのだろうか?
たとえば、曾祖父とか、鳥とか、身近にだれかの死の体験があって、母親に「天国に行ったのよ」と言われたのだろうか?
それとも絵本や物語でだろうか?

天国には一生に一回しかいけないというのは、一方向の時間軸を前提としている。しかしその子供の質問には空間的な地平が含まれているような気がしてならない。この子供にはそのような一方向の世界観はまだ持たれてないのだろうか?
いずれにせよ、天国には一度しかいけないとは限らない。一度もいけないこともあるかもしれない。
極楽なら何度もいける。わたしも温泉に行くたびに、「極楽、極楽」などと言って湯に浸かっている。などと、うそぶいて家に帰り着いた。

そのあと夜になって、映画『アイアンマン3』を見ていた。とあるシーンで、爆発現場の影が5つなのに死んだのは6人なのはおかしいとトニー・スタークが言ったのにたいし子供が、影があるのは天国に行ったからで、影がひとつないのは、犯人が天国に行っていないからというようなことを言っていた。

天国に行かなかった犯人も被害者で、死んだら天国に行くと教えるのはいつも大人だ。
子供は誰にも教わらなかったら死んだらどうなると考えるのだろうか。やはり身勝手な大人になり子供に天国を教えるのだろうか。
そういった疑問だけが残った。

最近の事、あれやこれや

年末からここ最近はずっと、今まで乱雑に書き連ねてきたあれこれをまとめる作業ばかりしていた。

ある程度まとめられてきたが、ここからはもう一度見通しをつけるためにいろいろと読み込んでいかなくてはと思う。
とりわけ、パースの記号学と、デュルケームやレヴィ=ブリュルの記述などにみえる各地の民族の世界観を、そして全体と部分の問題をもっと深く考察する必要がある。

それと知り合いから頼まれ、曲げわっぱを柿渋で塗る作業もしていた。どうやら雑貨店向けに作られた商品のようで、ウレタン樹脂系の塗料が塗られているようす。なかなか色が入らず、何度もヤスリがけしつつギリギリのラインで落とし込んで、ようやく「まあいいかな」と思える状態になった。
あとは、表面を固着材で処理すべきかどうかを検討中。

昨年、長野で譲り受けた自転車の整備はそんなこんなで一向に進んでいない。
古物商の仕事もしっかりやりたいし、やること、やりたいことが多いが、よくばるのは一番よくない。まずは目の前のことから、と思っているうちに遠くの方から、ちらちらと、確定申告の山々が姿を現してきた。

映画 6

二日続けてホラー映画を見るという暴挙に出てしまった。
最初は『来る』で次は『ヘレディタリー 継承』。一本目は自由意志で、二本目は友人のすすめで、その友人と。まあこれも自由意志だけれども。
その友人が多分そうだろうと言っていたが、たしかに対照的な二本だったと思う。一本目を見ていない友人のためにここでは『ヘレディタリー』だけを述べよう。

今回も予備知識ゼロ、ポスターのみという状態で行った。
見終わった直後の感想は、見てはいけないものを見た。というものだった。何てものを見せるんだと友人に思いつつも、傑作だと思った。
ホラー映画にはそれが、じつは超常的な存在は関係せず、主観で描いただけで、現実的にはいるともいないとも、どちらとも言えそうに描くものと、確実にそういった存在をいるとして描くもの、がある。どちらが怖いかということではない。持つ意味が違う。
まず、そういった存在がいると設定することは、ファンタジーを描くということでもあるからだ。つまりこの作品の世界ではそれが現実になる。たとえば、ドラキュラ伯爵のように。こういった場合は作品の中の世界にいる人々は驚愕するし、恐怖するが、見ている私は観客になってくる。
だがどちらともとれるということは、それが私たちの生きる現実を侵食するということであり、だから怖い。この映画は後者であると思う(『来る』についてはまた今度述べる)。
ボーダーラインを拡げるのと、ボーダーラインがなくなるのは、ちょっと違うということだろう。
別の言い方でいえば、現実的に水に溺れているのなら、もしかしたら対処も生存も可能かもしれないが、溺れているという幻覚のなかで、もがき苦しんでいる人はどうすればいいのか。手は無意味に宙を舞うだけなのか。

ジョーンのすすめで、アニーの現実が変わるシーンも構造上、映画の中でボーダーラインが変わるシーンだが、それはほとんど一家の現実に意味をなさない。それはこの映画全体が、矛盾する言い方になるが、現実的で非現実的な継承を担う構造に収められているからだ。絶望から逃れられず、しかもこれがいったいなにかもわからないという登場人物の無力さが悲しい。
しばらくぼんやりと、この映画の監督が一番言いたかったことはなんだろうかと考えたのだが、たぶんそれは食卓でアニーが「言いたかったこと」を発露するシーンだと思った。互いに交流のないまま一緒に暮らすことの、言わないこと、言われないこと、あるいは知らないこと、知らされないことの怖さ。

それにしてもこの映画はキリスト教圏に生きる人と、日本のような非キリスト教圏に生きる人では知識も受け止め方も違うだろうと思う。
キリスト教圏の人々に意見を聞きたいが、この映画を進める勇気もない。知らないことは怖さだけか、考え込ませる映画だ。