福井から関東に帰ってきて五年ほどが過ぎた。福井にいて気づいたことの一つに、土地の歴史を土地とともに考えるということがあった。関東に戻る際には、その後他の地域に移住するとしても、まず関東の歴史をいろいろな土地を回りながら考えておこうと思っていた。実際に千葉、栃木、伊豆などを車で回ったりしながら少しは考えてきた。だがなかなか全体的なことを考えるほどには時間もとれずにそろそろ移住を考える時期が近づいてきている。
そんな折、この前の勉強会で江戸文化が議題となり、少し概観的に江戸時代の通史の勉強をしながら考えてみたことで、いくつか気づくことがあった。それをここに記しておく。
徳川家康が関東に移住してくるよりも前から、当然関東はここにあった。
家康は移住してすぐに、河川の改修に取り組んでいる。利根川や鬼怒川といった北関東の河川は、その後、家光が日光の社参を繰り返すなかで、日光街道の整備とともに進んでいき、利根川東遷事業にまで発展している。
家康はその死後、駿府の久能山に埋葬され、分霊という形で、関東の守護神に据えられる。それは家康自身の意向による。
このことから分かるのは、家康は江戸にアイデンティティを持ってはいなかったということと、自分が作った江戸を中心とした関東一円を神となって守護するというときには、そこは自分の土地であるという意識において、所有的な観念があるということだ。
先にも述べたが、関東はそれ以前からも関東であるが、江戸を中心とした関東は、家康の都市計画的な構造のなかで、意義づけられ整備されていく。それは人が土地を合理的に改造していくということだ。そのようにして関東の街道整備や治水は行われる。
この際に関東という土地のもつ本来的な性質はあまり鑑みられていない。江戸は確かに水運に於いては便利であるが、それは人の利便性や効率、合理性にとってでしかなく、そのことは同時に、江戸は周辺に河川の河口が集中していることで氾濫時の危険性も高いことを示している。
茨城、千葉の北部にはものすごい数の「水神社」が分布している。このことはそれだけの水害があり、水神を恐れ崇めてきた歴史が、江戸以前から関東にあったことを示している。そのような水の危険を知っていた家康は、河川改修を積極的に進めるが、それは同時に、人工的に自然を押さえつける近代的なあり方の一番進んだものとなった。
利根川流域には河童の伝説が多く残り、また同時に、人柱の話も多い。自然への恐怖心は人間を原始的な心理に押しとどめる。しかしそれは同時に自然を直視し、受け止めながら生活することで、土地との結びつきは強い。
それに対して、江戸を中心とした都市計画では、そのような土地との結びつきは近代的な発想で無視され、強硬な開発によって自然を押さえつけるという方法で対応した。これはつまり、自然と都市が乖離した生活を意味している。そこでは河川は自然ではなく、交通網や生活利用のための水としてその目に移るのである。
江戸の中期、元禄文化が広がったのは、おもに大阪や京都であり、関東はそこまでではなかった。
関東で文化が一気に広がるのは、十八世紀の中頃、和暦でいえば宝暦天明のころのことで、その一つの要因としては、田沼意次の重商主義的な政策があるといわれている。田沼意次は印旛沼の開発も進めており、決して経済一辺倒ではなく、農業にも力を入れていたといわれるが、やはりこの時期に、江戸の主導権が、武家から経済的に豊かになってきていた町人層に移ったことは確かなことである。
武士はその見栄のために金がかかる。将軍家による日光社参は非常に金を食ったが、それは江戸の初期に家康の力を高めるためには必要だったのであろうし、参勤交代はよく知られているように、金がかかり、諸大名の経済力を奪った。
経済の中心は金や銀という物理的な資本から経済における物の価値に移っていく。
宝暦天明文化で花開いた江戸の文化の中心は庶民であり、江戸に生まれた諸大名の子孫たちもまた江戸っ子的な気質を持つようになり、幕臣もまたそうなった。蔦屋重三郎らによる出版文化は、江戸の落書のような庶民的な文化を、印刷文化にまで推し進めていく。
狂歌、黄表紙、読本、合本、川柳、浮世絵、錦絵といったものが、庶民の文化として、好まれ、それを作るものもまた各藩の下級武士や幕臣、商人や町人らであり、そのような人々がネットワークを作り、文化を形成した。
筆禍事件のようなものを通じて、武家の人々の参加には制限が生まれたようだが、もうこの時点で文化の担い手は庶民に移っており、衰えることはなかった。十九世紀にはいり、山東京伝や曲亭馬琴があらわれ、十返舎一九のような職業作家も出てくるようになる。
京伝や馬琴らの作品をみると、ここに別な変化が見出せるように思う。
京伝の『善知鳥安方忠義伝』では平将門の遺児ら(平良門、滝夜叉姫)の活躍する話であるし、有名な『南総里見八犬伝』もまた結城合戦を扱っている。
『善知鳥安方忠義伝』を画題とした歌川国芳の有名な錦絵「相馬の古内裏」では、将門の娘、滝夜叉姫が妖術で大きな髑髏を操り、源頼信の家臣である大宅太郎光圀とたたかう場面を描いている。
河内源氏である源頼信は平安時代の平忠常が房総半島でおこした乱を平定し、のちに源氏が関東に入る基礎を作ったとされる。
この反乱は、平将門が関東を支配した百年後のことであり、『善知鳥安方忠義伝』はフィクションであるがゆえに自由な配役をしていると思われる。
とはいえ、平将門は十世紀にして新皇を名乗り、関東を支配した最初の武将である。また平忠常は上総氏や千葉氏の先祖であり、ここでも関東のルーツ意識がある。
平良門は近松門左衛門の浄瑠璃などでは源頼光の敵として悪役である。それを主役に据えるのは、大阪・京都の元禄文化に対抗して江戸のアイデンティティを関東のうちに見出すことのようにも思える。
その点では馬琴も同じであり、関東守護の上杉氏に対する結城の遺児たちの戦いは、関東における源氏との戦いをよりローカルなかたちで、描いている。
将門と同じ坂東平氏の末裔である、武蔵国の秩父氏、相模国の中村氏、常陸国や上野国の平氏があつまり河越直重が中心となって南北朝時代におこした武蔵平一揆を制圧した上杉憲顕は足利尊氏の従兄弟であり、足利氏もまた河内源氏の末裔である。この上杉憲顕に始まる関東管領を上杉氏が世襲して関東一円を支配していく。
ところが、上杉氏はのちに足利氏と対立するようになり、上杉氏も扇谷上杉氏と山内上杉氏の二つの勢力となる。
扇谷上杉家の家臣である太田道真とその子、道灌が江戸城をつくり、道灌がそこを治めることになる。
そこにはそれまで江戸氏という氏族がいたとされるが、この江戸氏もまた秩父氏系の平氏の末裔である。
そもそも結城氏は鎌倉公方足利持氏の家臣であり、それが扇谷上杉氏と戦うというのは、もはや源氏同士の戦いである。というのもこのことは足利義教と持氏の将軍家督争いのからんだ対立という意味では足利氏の内部対立に端を発している。だがこれは京都にいる将軍と鎌倉にいる鎌倉公方の対立という点でいえば、関東というローカルな地域の反乱を意味していて、平将門や忠常と同じ流れにある。
このような争いの過程を経て、関東のいろいろな地域の氏族や、その支配地域の形成がおこり、土地と人々の関係が形作られていく。
このように江戸中後期の作家たちは源氏と平氏、京都と関東の争いを、関東での出来事から描き直すことで、関東のアイデンティティをより深く掘り下げることを行っている。それだけの知識を彼らは持ち、また調べもしていた。
家康が駿府に眠るように徳川氏は結局のところ関東の人々ではない。しかし関東に住む庶民たちは、自分たちが住んでいる土地を感じ取り、その土地の歴史を掘り下げ、そこにアイデンティティを見出していった。
そう考えると江戸の文化というのは、最終的に江戸という都市の文化から、江戸のある関東という土地の文化へと江戸末期に向かって変化しているととらえられる、だとすればその開放が明治におこっていくのではないかという気がする。幕末になり、京都と江戸の対立が再びおこったとき、そのようなアイデンティティはどう働いたのか、関東の明治期での有り様もまたそのような歴史過程をふまえてみなくてはならないような気がする。